そこでいろんな話を聞いた。向こうによく見える大きな山は安達太良(あだたら)山というそうで、日本百名山でもあるらしい。知らなかった。岳温泉街は温泉をはじめ、この山の恵みでできているという。ヨガやサイクリングもできると聞いて、美香の目が輝くのを見た。体力あるなあ。そしてなんと地域通貨の「コスモ」が健在だったので、記念に300円を300コスモに換金してみた。意外とちゃんとしたお札で、近くのファミリーマートでも使えるらしい。ほんと?
観光案内所を出ると、目の前の店に人が並んでいた。近寄ると揚げ物の香ばしい匂いがふわりと漂う。ソースカツ丼の名店らしい。並んでみようか。20分ほどして声をかけられる。案内されたのは座敷だった。壁にお相撲さんのカレンダーが貼られていたりして、THE昭和の定食屋、というかんじ。観光案内所の目の前にあるのに、地元民っぽい人だらけでなんかおかしかった。
運ばれてきたソースかつ丼は本当に本当に大きかった。カツ、2枚のっている。そしてすごくいい匂い。食べてみるとおどろくほどカツらしいカツで、カリッと新鮮な衣と肉の旨味とがこれ以上ないほど調和していた。油のいやな重さが全くなくて、ものすごくおいしい。「完食いけちゃうかも…」とか言いながら、丼の8割ほど平らげた(2割は持ち帰り用パックに詰めた)
腹10分目は立ち上がると、11分目になる。チェックインまで時間があるので、並木道を散歩することにした。道に沿って小川が流れていて、たまに橋がかかっている。水がこぽこぽしている場所があって、近づいてみると「手湯」と書いてあった。足湯の手バージョンってこと? 冷えた手をつっこんだ美香が「熱っ」と言って濡れた手をパタパタ振っている。手を入れてみると、たしかに熱い。でも、しばらく触っていると慣れてくるくらいの湯温で、かなり気持ちいい。その近くに足湯もあって、少し浸かっていくことにした。
並木道を進むと、公園があって大きな池に出た。晴れた日の池は気分がいい。美香が「あっかわいい」と言うので見に行くと、へびの…なに? 彫刻のようなものがある。たしかにかわいい。調べてみると岳温泉エリアに点在している十二支のスタンプらしい。原画と版画彫刻は日本でも有名な画伯と彫刻家が手がけているそうで、2人とも岳のある二本松市出身らしい。インクなんて持ってない美香が、パンフレットを一生懸命押し付けてうっっっすらとへびの型をとっていたのが、じわじわきた。ミーハーで、雑な人ってかわいい。
気づけば、チェックインの時間が近づいていたので宿に向かった。ロビーの一角に大きな器が置いて合って、色とりどりの菊が浮かんでいる。ここは菊が名産らしい。花好きの美香が、「菊手水(きくちょうず)って言うんだよ」と教えてくれる。凛としていてきれいだった。
部屋は眺めがとてもいい。荷物を降ろして、温泉に向かう。大浴場に近づくにつれて、温泉の匂いだろうか、いい匂いがした。ああ、早く早く。身体を洗って、いそいで浸かると、芯からほぐれていくのを感じた。温泉、学生の頃も好きだったけど、最近はもっと好き。岳温泉はこれまで行ったほかの温泉となんかちょっとちがう気がした。匂いもふしぎだし、肌触りがすごくまろやか。特に露天風呂はぬるめの湯温がすばらしく、何時間でも浸かっていられそうだった。
大浴場を出ると、安達太良山の天然水が無料で飲めるようになっていて、それがやたらおいしくてわたしも美香も2杯飲んだ。水のおいしさが特に沁みるようになったのも最近だな。おいしい水は、いろんな味がする。
浴衣に上着を羽織って、夕飯は『よろずや』という居酒屋に向かった。店内はオレンジの照明でぼやっと明るい。長テーブルがたくさんあって、すでに多くのお客さんで盛り上がっていた。席について、まずはビールを頼む。昼にあんなに食べたというのにすっかりお腹が減っていて、野菜炒めと手作り餃子を注文した。
福島においしい日本酒が多い、というのは有名な話。二杯目からは日本酒にいく。二本松は県内有数の酒どころのひとつだそうで、4蔵の飲み比べセットを頼んでみた。本当にどれもおいしくて、日本酒に詳しくないわたしたちですら味の良さがはっきりとわかる。そして飲みやすい。話しながら、ごくごくのんでしまう。
店内がちょっと静かになった。ぱっと振り向くと、さっきまで注文をとっていたお兄さん2人がギターを抱えている。平兄弟、というらしい。兄弟だったんだ。
演奏が始まった。突然のライブの始まりに美香と顔を合わせる。しばらくぼんやり眺めていたけど、お兄さんたちもお客さんたちも本当に楽しそうで、自分の気持ちがだんだん高揚していくのを感じた。お酒もごはんも、歌も、お客さんのうれしそうな顔も、いろんなことが心地よくて、自分の趣味とはちがうところでたしかに心が動いている。こういうのは旅先ならではだなと思う。
よろずやを後にして、二軒目は『洗心亭』という居酒屋に向かう。と言っても徒歩数十秒だけど。カウンターと小さなテーブルが少しあるくらいのこぢんまりとしたお店で、はちまきを巻いたマスターがキリッとかっこいい。気に入った日本酒をリピートつつ、おすすめされた山菜の天ぷらと馬刺しを頼んだ。マスターは以前山岳ガイドをしていたそうで、この山菜はマスター自らとってきたものだと言う。さくさくで風味よく、とてもおいしい。馬刺しを食べようとすると、常連さんが馬刺しの醤油に日本酒をたらして食べるやり方を教えてくれた。とろっと、ほっぺの落ちるようなおいしさだった。
マスターは岳の話をたくさんしてくれた。安達太良山の雪解け水や湧水がものすごくおいしいこと。その栄養たっぷりの水が高原に降りてきて、豊かな牧草地を生んだこと。その牧草で牛が立派に育ち、この町の経済を支えたこと。〆に安達太良山の水で炊いたご飯で焼きおむすびをいただいた。もうおなかはいっぱいなのに、じんわり満ちていくようなおいしさだった。
朝6時半。美香に起こされて起きる。本当に朝ヨガに行くらしい。ちょっと悩んだけど、眠い目をこすって宿を出た。
芝生の上に受け取ったヨガマットを敷く。早朝の山の空気は格別で、息を吸うたびに気道がきらきらするような感じがした。たしかにこれは来てよかったと思う。
身体が硬くてインストラクターさんのようには動けない。むしろまるでちがう。でもこの空気を吸いながら、ゆっくり体を動かしているだけで、気持ちが落ち着いていくのを感じた。最初は思うように動けないことが恥ずかしかったけど、途中からはそんなこと忘れていた。
ホテルに戻って朝食を食べ終わった頃、今日は白濁した温泉が出る「ミルキーデイ」という日だと知った。そういうアトラクション風呂、ではなく、ホテルの人曰く100%天然の湯花だという。どういうこと? 聞けば、岳温泉の源泉は温泉街から8kmも離れていて、山肌を伝わせて40分かけてここに流れ着く。そのとき、お湯が通る管に湯花がたくさん付着するそうで、一週間に一度その湯花をこそいで流すのだという。するとその日は、まっしろな、まさにミルクのような栄養たっぷりの湯になる、ということらしい。
驚いた。そもそも8kmもお湯を引っ張るって可能なの。全然信じられないけど、その距離のおかげで湯がもまれて酸性がやわらぎ、やわらかいお湯になると聞いて昨日のまろやかなお湯を思い出した。湯花流しは湯守と呼ばれる人々によって、標高1500mの地で行われるという。なんと手作業で。昨夜の洗心亭のマスターも元湯守らしい。すごく身近な話なんだ。こんな話を聞いてこのまま帰るわけには行かないので、もう一度温泉に入ることになった。
お湯は本当にまっしろだった。昨日よりもさらにまろやかさを感じる。これが自然の温泉成分だなんてつくづくふしぎだ。岳温泉の歴史は古く、実は平安時代からあった温泉らしい。けれど土砂崩れや災害の影響でなんども場所を変えねばならず、ここは4箇所めの温泉街なのだという。60年以上前に国民保養温泉に指定されているけど、それは当時全国で7箇所しかなかったそうで、めちゃくちゃ由緒ただしき温泉であったことを最後の最後で知ることになった。
源泉から8km離れてると聞いたときは、正直「なんでそんな無理して温泉街を…」と思ったけれど、そんなにすごいお湯だったのか。「ほかの温泉とちょっとちがう」という昨日の感想は、間違っていないのかもしれない。
ぽかぽかの身体でチェックアウトを済ませ、自転車を借りに『マウントイン』というホテルに向かった。美香がどうしてもというので、最後に電動自転車でピクニックをすることに。バーナーやホットサンドメーカーを借りて、快晴の中ガイドさんに続いて出発する。
山のサイクリングは体力が不安だったけど、電動自転車がこんなにすごいとは知らなかった。坂道もすいすい進むので、のんきに景色を楽しめる。光がまぶしく、冷たい風が気持ちいい。いろんな乗り物が好きだけど、自転車って特に好き。一緒にいるのに、ひとりずつなのがいい。たまに声を掛け合いながら、ペダルをどんどん漕いだ。
到着した場所は、旅番組でよく見るアフリカ? ってくらい360度大草原で、興奮した。これが安達太良山の水脈によって生まれた牧草地。日光が地面の緑を照らし、きらきらと輝く中、美香と小さく場所を作って、ホットサンドを作り始めた。空気が透き通っているから、食べ物の匂いがすごくきれい。借りた焼印をバーナーで温めて、パンにぎゅっと押し付けると白い煙があがった。そっと焼印を離すとマークがついている。それが楽しくて2人して焼印だらけのホットサンドを作った。焼きたてのホットサンドはすごく香ばしくて、熱いコーヒーがひときわおいしく感じた。何時間でもそこにいられそうだったけど、明日は仕事。「今日も泊まっちゃう?」って冗談を3回くらいやって、帰路についた。
行きと同じアイドルの曲が流れる中、山をどんどん抜けて街に出て行く。
「桜の頃にまた来ようよ」と美香が言った。
02. 相馬/Soma